「内裏」「京都御所」が存在し続ける意味 

 初めて投稿する記事なので至らぬ点が多々あると思いますが、良ければ読んでもらえると嬉しいです。言葉の意味や疑問点などがあればご指摘よろしくお願いします。

 

一. 

 今上天皇生前退位まで残り1か月弱となり、「京都御所」をどう扱っていくかを歴史目線で考える良い機会と思い記事にまとめてみました。

 まず平安京に至るまでの動向として781年に桓武天皇が即位し、784年遷都のために藤原小黒麻呂・種継らを長岡村に遣わし同年に長岡へ移ります。ここで発令から遷都まで非常に短期間で敢行している点に注目してみます。理由としては平城京内にあった寺院勢力の影響力の抑制や天武天皇系から天智天皇系への皇統の交代の明示や交通の便利さに注目し遷都し、律令的な官僚機構の場を作ったが、反対勢力の抵抗や 造営事業の停滞と費用の増大と二度にわたる洪水に早期遷都による造都計画の不完全さが浮き彫りとなり、より完璧な宮都の造営を目指す為に794年平安京へと遷都することになります 

 

二. 

 平安京を理解するにはまず古代について知る必要があります。古代は律令体制で天皇中心の中央集権的な国家体制であり、公地公民が原則でした。しかし平城京では徐々に寺社勢力が力を持ち始め中央集権の形では無くなってきました。

 そこで天皇中心の国家体制に戻す為に遷都を完璧な都城(中国古代の都市に近いもの)を目指したのが平安京になります。大内裏は精緻な法体系の律令世界を目に見える形に表現した構成となっています。 内裏は平安初期には律令体制再建を目指していたので強い王権と官僚機構の整備で天皇の居住空間と政務の場が一体化していました。しかし平安中期になると(摂関政治の発達で内廷中心の政治へとなり天皇の居住空間として内裏の重要度が増し、内裏の各殿舎の機能の多様化細分化が進んで行くことになります。その後内裏は何度も焼失し、遂には建てられなくなり公家の邸を転々とする里内裏が恒常化します。結果として平安京律令国家の都城を目指したが有力公家の里内裏により権門国家中心の都市へ変化して行きます。 

三. 

 鎌倉時代中期になると王家の勢力が仏教を利用した権力争いになり内部分裂が起こります。南北朝時代の臨時の内裏として行宮が誕生し吉野に移り南朝を建て、北朝は王家の間で伝領されていた里内裏の一つ土御門東洞院殿に定住するようになります。南北朝が統一される際にこの地に内裏が固定されるようになりますが現在と比べてかなり小規模なものになっています。その後朝廷は室町幕府と関係を持つようになり、幕府は施政に権威を与える存在として京都御所と朝廷の仕組みは残っていくことになります。 

四. 

 近世以後の動きとしては応仁の乱による荒廃は織田信長の復興で室町期の状態まで復旧し豊臣秀吉による復興で天皇の実際的日常生活の場と儀式の場が分離されてきた。これは統一権力として、自らの権力機構を整備するとともに、その権力を修飾し、支配に統一的な秩序体系を与える存在として朝廷を重視したとされています。江戸時代には八度修造され、中でも宝永度(1709)では敷地がほぼ倍になり、寛政度(1790)には学者でもある松平定信が総奉行にあたり、『大内裏図考証』を元に基づき、忠実に造営を行いました。京に配慮した施策だったのですが、結果としては江戸中期の国学の隆盛へ繋がり倒幕の遠因になりました。江戸初期の学問の主流は儒学江戸幕府儒者の役職を置くぐらい重視していました。林羅山が有名でしょうかね。少し話は脱線しますが江戸時代を前期・中期・後期 で区分するなら、儒学から国学への移り変わりという点に注目しても面白いですね。

 

  明治維新で遷都となり公家町が移転したことにより御所は荒廃しましたが、1873年第二回京都博覧会の会場となり、活気が戻りました。また明治天皇の意向により開いた場所には様々な植物が植えられて京都御苑となります。大正天皇昭和天皇の即位大礼は京都御所で行われ、近代国家における復古の意義を示しました。(平成天皇は東京で

行った。) 

 

六. 

 まとめとして律令体制の再興を目指し移転してきた平安京でしたが、中期には衰退し、天皇の居住空間は鎌倉初期に廃絶し、平安中期から戦国時代の約600年間は貴族の家を天皇の空間にした里内裏や小規模の内裏として存在するだけであって現在の形になったのは幕末の造営によるものです。内裏と京都御所は時代ごとに形が異なります。 

 

 これまでの点を踏まえて、内裏と京都御所が現在に存在する理由を考えて行きます。平成天皇が即位の大礼を東京で行ったことにより近代国家における復古の意義は失われています。そこで文化の面から京都御所に注目してみたいと思います。 

  

古事談第六から 

 南殿の桜の樹は、本は是れ梅の樹なり。桓武天皇遷都の時、植ゑらるるところなり。しかして承和年中に及びて枯れ失せり。よりて仁明天皇改め植ゑらるるなり。其の後天徳四年九月二十三日内裡焼亡に焼失し了んぬ。よりて内裡を造る時、重明親王式部卿家の桜の木を移し植うる所なり件の木は、本は吉野山の桜の木、と云々。橘の木は本自生へ託く所なり。遷都以前、地は橘大夫の家の跡なり。 

 

 

この史料は承和年間(834~848)の間に梅が枯れたので桜に植え替えるいといったった内容ですが、さらに詳しく読んでみると桜の木をわざわざ吉野山から持ってきて植えている点に注目したいですね。和歌という庶民を排除した文化の成長のため、文化という面でのこだわりが見えます。 

このような吉野の桜を植え替えるといった大きな作業は庶民には当然できないです。なのでこういった行為により庶民との格差を大きなものにし支配する支配されるの関係=律令体制をあらわしているのではと考えられます。ですが実際は前述の通り律令体制は長続きしないのと同時に和歌は今様(庶民の動向を視野に入れたもの)が読まれ始め和讃や連歌、俳句へと繋がって行き、文化と体制が同じように変化していっていることがわかります。 

 また明治天皇も荒廃した京都御所に様々な植物を植える意向を示したりと世代は変われど、御所が承和年間期のように自然と文化の融合体として後世に残して起きたいと考えていたのではないでしょうか。寛政度の改革による国学の隆盛の起点なったのも京都御所です。今日京都御所が現存している意義、理由は、人々が御所を通して、植物や建築技法、天皇のあり方、国学思想の研究など文化面での役割が大きいと考えます。 

 天皇が主権でない今の日本で室町・戦国期のような王家を立て直すことによる自分たちの施政の正当さを証明する為に政府が使っているように見えます。最近では2018年11月30日の秋篠宮の記者会見で http://www.news24.jp/articles/2018/11/30/07410496.html?utm_source=news24&utm_medium=featurelink&utm_content=410

天皇代替わりの祭祀「大嘗祭」について発言されている。内容としては宗教色の強いものを国費で賄うことが適当かどうか、できる身の丈にあった儀式をすることが本来の姿であると述べられています。この発言は現状政府への苦言だと私は感じました。皇室内部も政府に利用されていると感じているということだと思います。皇室と政治の分離のために皇室文化や御所を文化遺産として残して行く方針がこれからは必要だと考えます。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。